2Oct
”若冲”はこういう人です!
今回は”伊藤若冲”について書いてみました。
(ちょっと”流行”から離れますが…。)
”若冲”の展覧会に行こうと思っている人に
ぜひ知ってほしいと思ったからです。
やっぱり絵画を楽しむなら、
ある程度の知識や背景は必要だと思います。
これは私なりの持論ですが、
何も知らないで行っても
それなりに楽しめると思いますが…。
でも画家について、
または作風や技法などをちょっとでも知っていると、
いろんな角度から絵を見れてより楽しいのです!
だから目いっぱい楽しむなら、
少しは予備知識は知ってほしいところ…
同じお金を払うなら、
人よりも感動を味わいたいしね!!
そんなわけで
今回は若冲の歴史について~。
まず
この”伊藤若冲”という人は…
… 江戸時代中期に活躍した絵師なのです。
正徳6年(1716年)生~寛政12年(1800年)没。(満84歳)
1716年と言えば時代的には
江戸幕府で徳川吉宗が8代将軍になった年です。
この年に若冲は京都の錦小路にある
”青物問屋”の長男として生まれたと言われています。
それから若冲が23歳の頃、
父親の源左衛門が亡くなったのを機に、
長男でもあった若冲は家業”青物問屋”を継ぐ事になりました。
そして若冲が40歳の頃、
家督を弟の”白歳”に譲り、若冲は隠居生活に入るのです。
そして本格的に
絵師としての道を歩んだと言われています。
若冲が家督を弟に譲った理由は、
”絵を描く事への情熱が捨てきれなかったから”とも言われています。
よっぽど若冲は、
絵を描くことが好きだったんですね~。
実はそんな絵への情熱を伝える
こんなエピソードも残っているのです。
…”若冲は絵を描く事以外は全く興味がなかった。
商売への熱意もなく、
芸事も酒も女遊びもしなかった。
もちろん妻を娶る事もなかった。”
(生涯結婚をしなかったのです。)
つまりは”若冲にとって
絵を描く事が人生のすべて”だったのです。
逆を言えば、
絵さえ描ければ他に何もいらなかったのです。
だから若冲が早々と隠居をしたのは、
”残りの人生をすべて絵に捧げたい!”
そんな思いがあったのかもしれませんね~。
当時の平均寿命は、
およそ50歳くらいとも言われています。
(出産時の死亡率がかなり高かったそうです。)
それだけに若冲が40歳で絵の道を進んだのは、
今の時代で言えば老後の人生みたいなものでしょうか!?…
ちなみにこの頃
江戸時代で有名な絵師で言えば、
葛飾北斎や喜多川歌麿などがいました。
北斎は18歳くらいで絵の道に進み、
歌麿は約20代頃には本格的に絵の道に進んだそうです。
こういう他の絵師から比べても、
若冲の経歴はちょっと独特なのです。
でも”絵に対する情熱”に関していえば…
葛飾北斎と同じか、
もしくはそれ以上だったと思うのです。
実は北斎も絵を描く事以外は、
他の事に関してはまったく無頓着で無関心。
場合によっては
自分の名前さえ人に売るほどだったそうです。
つまり名誉やプライドにも
まったく興味がなかったと言われているのです。
北斎も若冲も絵にしか興味がなく、
絵を描く事に人生のすべてを捧げた。
だから歴史に残るほどの活躍をしたんだろうと思います。
その証拠に若冲の名は
『平安人物志』にも載っているのです。
これは近世(1700年頃~1800年頃)
京都で活躍した各方面の文化人の名前を集約した書籍です。
私なりに調べてみたのですが
”明和5年版”や”安永4年版”の「画家」の欄に載っています。
実は興味深い事があったのですが~
この『平安人物志』では”若冲”だけでなく、
”汝鈞”(ジョキン)と言う名前でも載っていました。
おそらく若冲の別名という意味だと思うのです。
こんな風に生前中の若冲は、
知名度もかなりあった様です。
でもその後は
あまり話題に挙がる事がなかったようです。
それが今になって
”再評価”という形で若冲の凄さが見直されたわけです。
もちろんそれは、
若冲の天才的な絵の技術があったからだと思います。
そんな若冲の技法や作風については、
次回でお話ししたいと思います。
⇒”若冲の絵の凄さ”へ
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